みなさん、こんにちは。5月8日のメタセコイアの会は、大柴チャプレンをのゲストにお招きして、

みんながチャプレンに聴いてみたかったことに応えて頂きました。

参加者からとてもたくさんの質問を頂きましたが、

今日はその中から2つだけピックアップして大柴チャプレンのコメントを紹介させて頂きます。

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Q1:チャプレンの働きについて教えてください。

A大柴チャプレン:簡単に⾔えば「チャペル(Chapel/礼拝堂)つきの聖職者」のことです。ただし「牧師(Pastor)」との決定的な違いは、「チャプレン」は布教活動をせず、どこまでも相⼿の(スピリチュアル)ニーズに即した「Clientcentered Care」を⾏います。「牧師」は主としてクリスチャンを相⼿に「聖書」や「聖餐」や「祈り」などを⽤いて「Pastoral Care」を⾏いますが、「チャプレン」は(仏教徒であれイスラム教徒であれ無宗教であれ)向かい合う相⼿の「Spiritual Need」に対して「⾃らの存在」を⽤いて「Spiritual Care」を⾏うのです。

例)マザーテレサは道端で倒れた⼈をリヤカーに乗せてホームにお連れした時に、最初に「名前」と「宗教」を聞くそうです。それは⼀⼈ひとりを「名前」で呼び、もしもの時にはその⼈が信じている「宗教/信仰」で葬儀を⾏うためでした。シスターたちは⼈間にとって⼀番⼤切なものは「名前」と「信仰」であると考えています。

 

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Q2:チャプレンは安楽死についてどう考えておられますか?

A大柴チャプレン:キリスト教の⽴場から⾔うと、「命は神さまのもの」と位置づけられますので、私⾃⾝は命をどこまでも⼤切にしてゆかなければならないと考えています。モーセの⼗戒で「殺すな」と⾔われている通りです。しかし、「⾃死」や「安楽死」について考える時に、「死にたい、死にたい」という⾔葉は私には「⽣きたい、⽣きたい」という語として響きます。その気持ちに寄り添って話を聴くことが求められていると思います。⾔葉が出てこなかったり、涙とため息しか出ない場合も少なくありません。チャプレンとしては⾃分の無⼒さをトコトン味わわされます。しかしそのような時にも「か・え・な・い・⼼」(⽇野原重明)をもって⼀緒にいることが⼤切と考えています。Doing(⾏動)よりも Being(存在)を、presence(⽬の前にいること)を⼤切にしたいのです。

「か」は「かざらない」

「え」は「えらぶらない」

「な」は「なぐさめない」

「い」は「いっしょにいる」

 

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