「胎動」
「社会福祉法人るうてるホーム」の胎動は、今から50数年前の日本福音ルーテル教会婦人会(現女性会)連盟の祈りと運動に始まる。
- 1954年
(昭和29年) - 京都教会婦人会連盟の多目的宿泊所を関西にとの提案がなされた。
- 1957年
(昭和32年) - 関西地区婦人会から牧師未亡人の老後のご苦労をなんとかしたいとする連盟ホーム案が提案される。
- 1960年
(昭和35年) - 連盟大会において「社会性をもつ規模の大きい無料の施設を」と、養護老人ホームの設立のための募金活動を行うことが議決され、翌年には目標額を達成する。
「祈りと運動が起こした奇跡」
そのころ日本は、国民年金法や国民健康保険法など、所得の低い高齢者を対象とした制度が作られてきたが、高齢者のみを対象とした福祉法はなく、生活保護法の中での支援しかなかった。
しかし、ようやく1963(昭和38)年、高齢者に対する独自の福祉法である、「老人福祉法」が制定され、これにより高齢者福祉は生活保護法から抜け出し、一般の高齢者も法の対象になった。
- 1964年
(昭和39年) - 計画の実現を日本福音ルーテル教会の手に託し、同12月社会福祉法人の認可をうける。
この施設建設の為の募金活動は熾烈を極めた。中でも中心的存在であった初代理事長辛木多恵氏、近藤美知子氏、大原玲子氏の3名は軽費ホーム設立時、作業場増設時、特養建設時と合計3回の募金活動で270社もの企業を回ることとなったのである。しかし、企業にしてみれば何のメリットもない完全な寄付なので、当然いい返事はもらえるはずもなかった。
ここでの募金活動は単にお金をたくさん集めればいいというものではなく、るうてるホーム設立への熱い思いとキリスト者としての誇りがあった。
ある時、とある財閥が「自社のイメージアップに使うなら出す。」と当時の金額で700万円の寄付の申し出があったが、3人はこの申し出を断った。
そのときの思いをこう振り返っている……。
「『企業のPRではなく一人ひとりの善意が大切である。』との理由からでした。私どもは貧者の一灯(ひとつの灯火)といって、いろいろな方から生活費を削っていただいたものが中心になっている。金額ではないんです。」
- 1965年
(昭和40年) - 新しい老人福祉法により制度化された「軽費老人ホーム」の設立手続きを進め、軽費老人ホーム「るうてるホーム」竣工。
こうして完成したるうてるホームには並々ならぬ思いがあふれ出ていた。
るうてるホーム30年記念誌の中で大原氏は、
「そのような中で、るうてるホームの鉄骨が立ちあがったときに、誰もいないところで鉄骨に抱きついて声をあげて一人で泣いた覚えがあって、その時にだれかの『ありがとう』とか『ご苦労さま』という声よりも、神様と直接対話ができたことが嬉しかったんです。その時に、神様、ありがとう、こんないい感動を与えてくださってありがとう。もうそれで私は御褒美もほめ言葉も何もいらないと思ってね。近藤さんと手を取り合って、夜通し泣いたわね…。」(対談の内容をそのまま引用)
「老人がいばっておれる場所ができた」
大阪府下民間第1号となった軽費老人ホーム「るうてるホーム」は、措置による入所ではなく、契約による入居方式が新しく導入された。また老人ホームではじめて個室が採用され、プライバシーが保証されることとなったのである。
今でこそ「本人主体」や「利用者本位」という原則は当然のように言われているが、1965年(昭和40年)当時入居される方々にとって主体的な生活の場となる新しい福祉観の実践がスタートしたのである。
竣工式の祝辞で、「初めて老人が威張っておれる場所ができた。」との言葉からも当時の喜びが伝わってくる。
「クラブだ! 行事だ!交流だ!」
- 1972年
(昭和47年) - 軽費老人ホームに隣接する作業棟竣工
作業棟は個室に加えて入居者同士の交わりと生産の場が生活を潤いのある豊かなものに変えるとの考えから建築されたものであった。
作業棟ではクラブ活動や趣味活動が活性化し、創作された作品はバザーなどで販売され、収益をももたらした。
近年、高齢者の役割喪失の問題が大きくなってきている中、役割の喪失は生きがいの喪失につながるともいわれている。当時のるうてるホームでの生活をのぞいてみると、役割の喪失どころか「忙しく、はりがある」生活が営まれていたことがわかる。
そんな中、詩人でもあった入居者の井上淳子氏が讃美歌368番の曲に乗せた『るうてるホームの歌』を作り、この歌は今もなお、歌い継がれている。
「1行を消すために1億円!」
当時の軽費老人ホームは身辺の自立が困難になった方々には他施設、病院に移らなければならない現実があった。パンフレットにも「介護が必要になったら、専門の施設に移っていただきます」という一文があったからである。
時には、退所していただくよう申し出ざるを得なかった入居者から「どうか、ここに置いてください。」と切々と訴えられたこともあった。
そのような状況の中で、職員たちは真剣に悩んだ。
るうてるホームで、お客様を最期までケアできないか・・・。
るうてるホームで、お客様の生活の継続性を守れないか・・・。
当時、職員であった坪山孝が「パンフレットの一行を消すわけにはいきませんか」と言ったところ、泉亮施設長は「その一行を消すためには、1億円かかるよ。その前に専門の介護施設を建てなきゃならないから」と応じたという。
- 1977年
(昭和52年) - 特別養護老人ホーム るうてるホーム竣工
そしてお客様の生活の継続性を守るべく、るうてるホームは「高齢者福祉はお客様を最後までケアすることによって完成する」と特別養護老人ホームの建設を決意し、実現することになったのである。
「デンマークから介護の黒船到来!」
特養開設1年前(1976年)、デンマークルーテル教会からマルムグレン夫妻が日本に派遣された。
夫妻は施設敷地内の宿舎に泊まり込み、5年間にわたり職員に介護の指導と訓練を行ってくれた。
当時の職員はケアの組み立て、ケアの基本的な考え方を熱心に習得し、その過程において実際に職員が現場で手ほどきを受けて鍛えられたことが、特養にとって後々の宝となったのである。
マルムグレン先生の介護の原則は、
ボディケアを徹底する。
できる限り離床、寝たきりにしない。
お年寄りの要求はどんなに小さなことであっても、個別にいつでも対応する。
というものであった。この教えが今もるうてるホームの介護の基本となっている。
「小さなことは小さなことにすぎません。しかし、小さなことを忠実に、しかも確実に実行することは、大きなことにつながるのです。」
これがマルムグレン先生の口癖であった。
「地域のニーズも見逃すな!」
- 1978年
(昭和53年) - 大阪府のモデル事業として地域入浴サービス開始
1970年代に入ると、高齢者福祉施設が地域社会に責任をもつ経営をすることが主張されるようになってきた。るうてるホームでも、この頃にはすでに高齢化のニーズを地域と共に担って解決していく方向性が共有されていた。
「るうてる前線拡大中!
地域も職場に!」
- 1980年
(昭和55年) - 短期入所サービス開始
- 1989年
(平成元年) - ミニディサービス、福祉自動車移送サービス開始
- 1990年
(平成2年) - 大阪府在宅サービス供給ステーション事業受託
このころより、在宅介護支援センター、ホームヘルパー事業、心身障害者ディサービス事業など複合的にサービスを開始し、るうてるホームの実践現場が地域社会に拡大していくこととなった。
「制度はあとからついてくる」
- 1992年
(平成4年) - 四條畷市単独事業であるリネンサービス開始
この事業の誕生には秘話がある。
ある時ホームヘルパーがシーツ交換や清拭で訪問した時のこと。家族から「皆さんに助けていただいてありがたいんですけど…」といわれることがあった。
ヘルパーはこの「ですけど…」という小さな言葉を見逃さなかった。
目の前には、交換を終えたシーツがあった。確かにシーツ交換をしてもらえるのはありがたい。
けれども、自分はそのシーツを家庭用の洗濯機で洗濯し、干さなければならない・・・。
高齢者のいる世帯にとってはこの洗濯ということが大きな負担であったことに気付いたヘルパーは、当時特養で普通に行われていたリネンサプライ(業者によるシーツレンタル)の活用を思いついたのであった。
そこからの動きは早かった。
行政に何度となく現状を訴え、理解を求め、そしてついに制度化までもっていくことができたのであった。
現在に至るまでこのサービスは唯一るうてるホームだけが行っている市の事業となっている。
るうてるホームの在宅サービスは、目の前におられる一人ひとりのニーズから立ち上がった小さい規模のサービス事業がニーズをさらに掘り起こし、その後サービスの規模がだんだんと大きくなっているのが特徴である。
これは何より、るうてるホームの理念である「お一人おひとりを大切にし、誠実に仕える」という言葉の具現化であったと言える。
「より多くの援助を必要とする人にうって出る」
- 2000年
(平成12年) - 障害者生活支援センター事業受託(現在は受託終了)
介護保険法施行にあわせ居宅介護支援事業、訪問看護ステーション事業開始 - 2004年
(平成16年) - 大阪府独自事業「コミュニティ・ソーシャルワーカー配置事業」受託(現在は受託終了)
- 2006年
(平成18年) - 地域包括支援センター受託(現在はなわて地域包括支援センター)
「支えられつつ、支えて」
るうてるホームの歴史を改めて振り返ってみると、常に時代の一歩前を進んできた先進的な理念と、その理念に裏づけられた実践があったことを感じることができる。
そして、その実践を支える理念は誰かから教えられ与えられたものでなく、るうてるホームに関わる者が目の前のそのひとりの思いや困難に少しでも近づこうとした結果ではなかったか。
私たちの先輩方はその理念をただ単に唱えるだけでなく、先ず率先して実践してきた。
それが、まさにるうてるホームに受け継がれている「お一人おひとりを大切にし、誠実に仕えることの実践」だ。
今、改めて私たちは思う。
目の前にいるお客様おひとりおひとりのニーズをしっかりととらえた実践をしているのだろうか。
るうてるホーム先人達の歴史の上に胡坐をかき、「先輩がこうしていたから。」「この方が良いに決まっているから。」と現状を決めつけてしまっていないか。
るうてるホームとしてのミッションを忘れていないか。
「人手が足りないから。」「時間がないから。」「制度上できないから。」と目の前の方々の困難から目を背けていないか・・・。
前総合施設長である坪山 孝は、
「『るうてるホーム』とは、法人や建物ではありません。利用者とそのご家族や社会は、職員が提供するケアやその質を評価するのです。」と述べている。
昔も今も、私たち職員は、お客様を一方的に支えるだけではなく、お客様からもたくさんの配慮や学びをいただいている。
これからも私たちはお客様をはじめご家族や地域、あるいは諸先輩方の歩みに支えられていることを忘れず、夢や希望、可能性、そして何よりキリストの愛をもってこれからのるうてるホームを創っていきたいと考えている。
「建て替え計画のはじまり」
1965年(昭和40年)に建築された軽費老人ホームの建て替えについては、築後35年を経過した2000年(平成12年)ごろから議論が開始されていた。記録によれば当時は、老朽化がすすむ軽費老人ホームのみでの建て替えのために約600坪の土地を求め、近隣の社員寮跡地や忍が丘駅近くの土地を候補としていたが、いずれも金額面での折り合いが付かず、計画がすすむことはなかった。
そのような中、特別養護老人ホームも2001年(平成13年)の耐震診断の結果、大がかりな補強工事などの対策を講じる必要が生じ、特別養護老人ホームも早急な対策が課題となった。
また、2005年(平成17年)前後には小学校跡地に移転という打診があったが、これも運営面での課題が多く、実現に至ることはなかった。
2007年(平成19年)に理事会は前坪山孝総合施設長の力強い応援により現地建て替え計画に舵を取り、大阪府と折衝を開始する。この計画を進めるにあたっては、設計事務所3社によるプロポーザルを行い、双星設計株式会社を設計事務所として選任することとなった。
しかし、実際に計画をすすめていくと、耐火仮設施設を設置しての工事は工期が三期に至り、総工費が思いの外かかることと、軽費老人ホームを現行規格で建て替えなければならないことで建築面積が増え、同じ場所での新規格特別養護老人ホームの建て替えが不可能になる点など問題点が次々明らかになり、思うように計画をすすめることができなかった。
そのような中、市から他法人施設跡地売却の打診があり検討をはじめたが、都市計画法上、第一種住宅専用の土地であるため建築面積や容積率などの制限により、課題がクリアにならず、結果として断念せざるを得なくなった。
このように、様々な制度上の制限により軽費老人ホームとしての維持が困難となり、かつ特別養護老人ホームの建物としての危険性を考慮すると、新たに土地を購入し一体的に建て替えることが現実的であるとの認識が深まってきたのであった。
「中・長期計画策定から土地取得まで」
- 2009年
(平成21年)11月 - 理事会において中・長期計画を策定し、ホーム創立50周年にあたる2015年(平成27年)までに建て替えを実施することを決める。
この計画においては、新たに土地を購入しすべての事業を移転させ、現有地は運営面においても早期売却を目標とすることを定めた。
その後は法人事務局が中心になり、不動産業者の協力を得ながら市内のあらゆる場所において土地の選定を進め、結果的に現在の岡山5丁目に休眠中の農地約1300坪を見つけ、地主との交渉を始めることなる。
交渉の中では、金額が折り合えば売却の意向を示してくれたが、提示された金額は予算を大幅に超えることとなった。何度かの交渉を経たもののなかなか折り合いはつかず、一度はあきらめなければならないかと思われたが、粘り強い交渉の結果、ようやく承諾を得ることとなった。
次の課題は、手に入れた土地が農地のために開発を行わなければならないことと、府から移転事業を補助金対象事業として認めてもらわなければならないことであった。また隣接地が稲作を行っていたため、農閑期に工事を行わなければならず、そのために土地を先行取得する事業計画をたてたが、これは府の補助事業のスケジュールとは合わないものであったため、交渉は難航を極めた。
幾度となく事業計画を練り直していく中で、ようやく府から認めてもらったのは、相談をはじめて半年後のことであった。並行して福祉医療機構からの融資相談も続けていたが、こちらも府の結果を得て、なんとか認めてもらうことができた。
そして土地売買の交渉をはじめておよそ1年半後の2011年7月にようやく土地売買の仮契約を取り交わすこととなった。
「土地開発から建設開始まで」
開発の事前協議がはじまり、次に待ち受けていたのは、市教育委員会による工事前の文化財調査であった。試掘をしたところ、いくつかの遺構が見つかったと報告を受け、本調査の必要性がでたため、10月から12月上旬まで本調査が法人の費用負担で行われた。結果、重要な文化財は発掘されず調査は無事終了し、2011年も終わろうとする12月22日に土地の所有権移転が完了することとなった。
- 2012年
(平成24年)4月 - 新るうてるホーム建築委員会 発足
明けて1月からは水路の付け替えをはじめとした開発工事を前田建設工業株式会社が落札し、3月末には無事終了することができた。そして新年度スタートと同時に現場の職員を中心とした建築委員会を立ち上げ、事業ごとに現場の意見を取り入れた設計が始まった。
4月に入り大阪府との補助事業協議がすすめていく中で、また新たな問題が発生する。当初の計画では、すべての事業を一体化するために地上5階建で設計がされていた。しかし、様々な費用を積算する中で、総事業費が思いの外はねあがり、このままでは経営が行き詰ることが予測されたため、急遽4階建て案に設計をやり直し、協議に臨むこととなった。協議の中では、事業の継続性や法人運営の健全性が細かくチェックされ、特に軽費老人ホームからケアハウスへの転換については、大阪府下においてもあまり例がないため、協議は容易にすすむことはなかった。
そしてついに2012、2013年度の2カ年事業として大阪府の補助事業の交付決定を受けることとなり、工事公告、入札などのスケジュールを経て、株式会社フジタが新しいるうてるホームの建設工事を施工することとなったのである。
「起工から竣工まで」
- 2012年
(平成24年)10月 - 起工式
- 2013年
(平成25年)10月 - 竣工式
秋晴れの10月26日。永吉牧師司式のもと、待ちに待った新るうてるホームの起工式が理事、評議員、幹部職員の見守る中で行われた。
11月に入り、杭打ち工事を始め本格的に工事がスタートする。狭い公道、隣接する近隣住宅が多いなど、建設工事としては決して容易なものではなかったが、大きなクレームやトラブルなどはほとんどなく、工事は順調にすすんでいった。
毎週行われた定例会では建築状況の報告を聞き、現場の様々な要望や意見を最大限に取り入れてもらうことができた。2013年(平成25年)3月には大阪府の中間検査が無事終了し、6月にはケアハウスのモデルルームも完成し、ひと足早く写真で入居案内ができるようになる。
工事も大詰めの中、時には一日200人近い作業員が建築にかかり、お盆休みも返上して作業は続いていった。
そして9月上旬に大阪府の最終検査が無事終了。ついに9月26日竣工となり、法人に引き渡されることとなったのである。
「新たな50年へ向けて」
2015年(平成27年)5月には法人創立50年を迎えた。先達から預かったるうてるホームの建物はなくなってしまったが、その魂は確実に受け継がれていると確信している。
今回建物の定礎石には、竣工現在の入居者、職員のメッセージを埋め込んである。この建物が役割を終えた時に、再びそれは多くの人の目に触れることになるだろう。
その時まで、私たちは初代るうてるホームを築いた人たちとの思いとともに次の世代へと確実にバトンを渡すことが求められている。
私たちはこの新しい建物を与えてくださった神様に心から感謝を捧げたい。
こうして私たちは再び新たな50年に向けて挑戦し続けることができるのだから。